合唱漫遊記 −海外赴任の折々に− その4〜その6

<その4> イタリアンサラダの注文(シンガポールシンフォニーコーラス−SSC)
 シドニーの次の赴任先はシンガポールでした。今度は商社から一転して化学品製造設備メーカーの現地合弁会社の運営が主務でした。
1982年、赴任して間もないある日、何気なく聞いていたラジオから、シンガポール・シンフォニー・オーケストラ(SSO)に所属するシンガポール・シンフォニー・コーラス(SSC)が団員募集のオーデションをするという案内が流れたのです。これは面白いと早速、マーライオンに近い伝統あるビクトリア・コンサートホールに出向きました。私のオーデションを待っていたのは、あばた面、髪ぼさぼさの無愛想な男で、これが指揮者リム・ヤオとの出会いでした。
リム・ヤオは中華系シンガポール人で、もともとはベースの声楽家でしたが、ロンドン留学の途中から指揮者に転向、留学中はバイロイト音楽祭での合唱メンバーでもあった事から、合唱指揮にもオーケストラと同じくらいの情熱を注いでいました。留学から帰って、SSOの常任指揮者として迎え入れられたのですが、一つの国は二つ以上オーケストラを持つべきだ、との持論を押し通し、この国二つめのオーケストラ、ザ・フィルハーモニック・オーケストラを、一人で設立してしまったというエピソードの持ち主です。若くしてシンガポール国家文化功労者として叙勲されていて、その名を知らぬ人のない存在でした。
練習は毎週水曜日の夜。ビクトリア・コンサートホールのステージで行い、年に4回ほどあるSSOとの共演に備えていました。メンバーは中華系、マレー系、インド系のシンガポール人が主体で、それに現地在住の米国、ドイツ、イギリス、台湾、インドネシア人、それに日本人とまるで人種の坩堝の様な合唱団でした。オーケストラもシンガポール人にロシア、ドイツ、チェコ、中国人等、こちらも多国籍の寄り合い所帯でした。
オーケストラとの共演以外にアカペラあるいはピアノ伴奏だけでのステージもあり、その中に音楽用語だけの歌詞で、コミカルなバリトンソロ付きのItalian Saladというアカペラの曲がありました。最初の練習日の休憩時、オーデションに関係の無い女性と我々テナーがステージの外で休んでいる間もベース系は残され、バリトンソロのオーデションが行われていました。
休憩から戻っても、オーデションは続いています。と、私の姿を見たリム・ヤオが「Mr.Yamada これ、歌ってごらん」と言うのです。「テノールだから無理です」と必死に逃げたのですが、「大丈夫、大丈夫」という強引な要求。もはや破れかぶれと、譜面を追って歌い終わると、彼は「それだ」と言うばかりの顔をベース連中に見せた後、「お前さんがソリスト」と、とんでもない事を言い出したのです。日本人が珍しかったのでしょうか、あるいは私は氏の好みだったのか。今でも理由は分かりません。おかげで伝統あるビクトリアコンサートホールでソロデビューという望んでも得られない体験をさせてもらいました。
この曲は後日、マレイシアのペナン島での演奏旅行のプログラムにも組み込まれマレイシアの人たちにも紹介する事ができましたが、今思い出しても冷や汗三斗の思いです。
SSCではモーツアルト、ハイドン、ヘンデル、メンデルスゾーン、バーンスタイン、グノー、フォーレ、マーラー、ストラビンスキー等々、様々な有名作品をオーケストラ伴奏で歌うことができました。(アウシュビッツを題材としたヒンデミットの作品だけは、「この曲のどこが良いのだろう」と最後までいぶかりながら歌ったものでしたが・・・)。
シンガポールに行かれる方は、是非、現地の音楽会スケジュールをチェックされる事をお勧めします。今でもSSOの定演やザ・フィルハーモニックで、リム・ヤオのかっこいい指揮振りが見られるはずです。

Mr.Lim Yao と

<その5> 途切れぬ友情 (The Philharmonic Chorus −TPC)
 前回、ご紹介したシンガポール・シンフォニー・オーケストラ(SSO)とコーラス(SSC)の指揮者、リムヤオは音楽面ばかりでなく、団の運営面でも非常にアグレッシブな人で、企画や運営方法をめぐって、しょっちゅう理事者側と軋轢を引き起こしていました。ですから、もっと自分の思い通りに指導と運営ができ、音楽的レベルも高いコーラスグループを立ち上げようと目論んだのも、考えてみれば、当然の流れでした。
オーデションで選別されたSSCのメンバーと音楽教師たち40人弱の混声合唱団The Philharmonic Chorus (TPC)が誕生したのは1994年のことでした。私も6人のテノールの一人として入団を許されました。
英、仏、独、ハンガリー、ロシア、北欧の作品に加え、中国、フィリッピン、インドネシア、また日本の作曲家では武満徹の作品も取り上げるという、まことに欲張ったレパートリーで、定期演奏や地方巡業、ホテル、などでの演奏、国外遠征と活発に活動しました。とりわけ遠征演奏では隣のマレイシアはもとより,アメリカ、イタリア、日本にまで足を延ばしました。
1998 年にはイタリア、ベローナ近郊で行われたリヴァデルガルダ第5回界国際合唱コンクールに参加しました。私も何とか参加しようと会社内であれこれ画策したのですが、運悪くタイバーツ切り下げに端を発した東南アジアの通貨混乱と重なってしまい、涙をのみました。ところが、連中はイタリアで大健闘。課題曲部門で金、宗教曲の部門で銀メダルを取ったとの電話を貰った時は、歯軋りで私の歯はぼろぼろ(?)になるほどでした。
2002年、私はそれまでの私企業からお役所がらみの仕事に移り、カンボジアに赴任していました。その私に「TPCが日本に遠征するので私も参加するように」とお誘いがかったのです。日本の文化庁の招待で、プロ合唱団、東京混声合唱団と新宿オペラシテイー共演できるという夢の様な話でした。
同行したいのは山々でしたが、新しい職場、しかも赴任直後の身としては、とても私用休暇など言い出せる雰囲気ではありません。これまた涙をのんで、はるかカンボジアの空の下からTPC日本公演の成功を祈るばかりでした。
TPCのメンバーは限られた人数でしたが、グリー同様、練習ばかりでなく様々な行動を共にするため、仲間同士の絆は非常に強いものがあります。いまでも私がシンガポールに行けば、必ず大勢の仲間が集まって、大歓待の宴で迎えてくれるほどです。
実は、先ごろ、こんなことがありました。GPC(現在私が国内で所属している合唱団)の練習の帰り道、夜中にはめったに鳴らない私の携帯が鳴り出したのです。家で何かあったかな、といぶかりながら電話を耳にあてると、聞こえてきたのは“Hallo、Mr.Yamada, Happy Birthday to you!”という懐かしいTPCの仲間の声ではありませんか。もはや家族以外、誰も気にもしてくれない私の誕生日を、はるか海の向こうで今でも覚えていてくれていたのです。仲間のありがたさを夜空の下、一人かみ締める出来事でありました。
エッ、電話をくれたのは男性か女性か?ですって、聞くだけヤボというものです!

The Straits Times , June 8,1994 芸術欄より The Straits Times , April 15,1998 イタリアでの国際コンクールで金メダルを取ったニュース記事より

<その6>アメリカの合唱祭 (1996−Choral Festival in Missoula, Montana, U.S.A.)
TPCの話を続けます。
1996年にTPCはアメリカ、モンタナ州ミズーラ市で開催される国際合唱祭に招待され、これには私も参加できました。シンガポールからアメリカに向かう途中、私たちの便は成田に一旦着陸しましたが、短時間の休憩のあと、すぐ離陸。折角、自分の国に着きながらそのまま素通りするのは奇妙な気持ちでした。私にとっては初めてのアメリカ大陸で、行けども尽きぬ巨大さに「なんでこんな国、相手に」と、太平洋戦争を引き起こした連中の無知無謀さを改めて恨んだものです。
 ソルトレイクシティを経由、山脈に突っ込むような曲芸飛行に肝を冷やしながら目的地のミズーラに到着しました。ミズーラは、カナダ国境に近い標高のある僻地で、日本で言えば岩手県の山奥の町と言うところでしょうか。こんなアメリカの端のちっぽけな町で町民総参加の手づくり国際合唱祭が開催されたのです。
我々シンガポール勢のほか香港、韓国、タイといったアジア勢、リトアニア、オーストリア,ベルギー、
ポーランド、ドイツの西欧勢、南半球からはニュージーランド、アルゼンチン、それに地元組、アメリカ他州組と、実に国際色豊かなコーラスグループが集まりました。しかも、これだけの大所帯をホテルではなく、町民の家へのホームステイでもてなしてくれたのです。国際的イヴェントを支える現地ボランティア活動の懐の深さにはホトホト感心しました。
 私と同僚のテナーと二人が引き取られたのはポーランド系夫婦の家でした。悠々と流れる幅30メートルほどの川に面した広い庭にはホバリングしながら花の蜜を吸う体長5?ほどの小さなハチドリ(蜂鳥)が飛び交い、川からやってくるビーバーの害を防ぐ金網で囲われた木々が高々と天をさしていました。庭の反対側は地平線に向ってせり上がる草原が際限無く広がっていて、馬に乗ったインディアンを稜線にずらりと並ばせれば、まさに昔見た西部劇「遠い太鼓」のロケ現場を見る思いです。お世話になったご夫婦は、一週間の滞在中、食事はもちろん、練習場、公演会場への送り迎えと、まるで自分たちの親戚の様に温かくもてなしてくれました。
参加国の中で韓国は音楽大学の女子大生で歌唱力もあり、それも飛び切りの美人ぞろいでした。しかし、この韓国の指揮者が「人前に立つコーラスでは、歌い手の見かけは声と同じくらい大切で、メンバーにきれいな子をそろえるのは当然」と、ぬけぬけ自慢するのには、一同、声も出ませんでした。
 我々はチャイコフスキー、グリーク、武満徹「さくら」という、どちらかといえば渋い作品に加え、シンガポールの作曲家によるシンガポールメドレーを歌い、喝采を浴びました。
もともと、この合唱祭はコンクールではなかったのですが、我々の指揮者リムヤオ氏には「特別指揮者賞」が授与されました。一般の合唱指揮者に交じって、現役バリバリのオーケストラ常任指揮者が振ったわけですから、受賞は当然でしょう。
 いくつもの素晴らしい思い出を持って帰国した我々を最初に待っていたのは、首相主催による盛大な凱旋慰労パーティーでした。市内中心にあるマンダリンホテルの大広間に首相のゴーチョクトン以下、政府首脳、陸海空軍の高官がずらりと並びました。開会で恒例のシンガポール国歌を歌い始めた時です。勲章を、これでもかというほど胸一杯につけた制服姿の将校たちが、ものすごい勢いで、歌う我々に向ってスパッと最敬礼、直立不動の姿勢をとったのです。
あまりに真剣で思いつめた彼らの表情に、私の背筋には冷たいものが走りました。

1996-国際合唱祭、ミズーラ、モンタナ州、USA

つづく

昭和40年度卒トップテナー
山田三千夫