合唱漫遊記 −海外赴任の折々に− その10

<その10> 終わりに<国歌あれこれ>
これまで私の赴任先での合唱体験を綴ってきましたが、最後に国歌をめぐるあれこれの思い出をご披露して、拙文に終止符を打たせていただきます。

□オーストラリア
私がシドニーいた1970年代初めまで、オーストラリア国歌は英国と同じGod Save the Queenでした。国歌は演奏会の幕開けに必ず歌われます。私もコーラスメンバーと一緒に「神よ我らが慈悲深き女王陛下を守りたまえ、我らが気高き女王陛下の永らえんことを」と声高らかに歌ったものです。歌いながらこんなことをよく考えていました。
この国の人たちは一体、どんな気持ちでよその国の女王を称えようとしているのだろう?英国のような古い伝統を持たないコンプレックスと旧宗主国への敬意と郷愁なのだろうか?独立国家の誇りはどうした、しっかりせいや!
きっと私と同じような感情を持つ国民が多数派になった結果でしょう。180年余りにわたって公式に歌われてきた「女王陛下の国歌」に代わる自分たちの国歌を求める機運が高まったのです。1974年、ついに三つの候補曲から国歌を国民投票で決める事となりました。
候補作品は、従来のGod Save the Queen、次にWaltzing Matilda 、それに Advance Australia Fair の3曲でした。
Waltzing Matilda は放射能汚染による地球滅亡を描いた映画「渚にて」のテーマソングでしたから、皆さんもご存じでしょう。オーストラリアでは今でも最もポピュラーな曲です。メロディーやリズムから見れば、フィナーレに盛り上がるこの曲が新国歌に一番ふさわしく感じました。が、問題は歌詞でした。オーストラリアのブッシュ(荒野)をさまようスワグマン(放浪者)が、羊泥棒として騎馬警官に追われた揚げ句、ビラボン(沼)に飛び込み、彼の亡霊が沼の周りを徘徊するという、ひどい豪州なまり、スラングだらけの歌詞だったのです。
最後のAdvance Australia Fairは最も新しい作品です。「オーストラリアの同胞たちよ、喜ぼうではないか、われわれは若くて自由だ、進め、美しきオーストラリアよ」という歌詞で、候補作の中では特にどうと言う事の無い平凡な印象でした。
私は投票結果を聞かぬまま帰国してしまったため、どの曲が国歌になったか分からずじまいでした。たまたま1984年、ロサンゼルス・オリンピックでオーストラリア選手が表彰台に上った際、Advance Australiaが奏でられたのをテレビで見て、新国歌を知ったのでした。「結局、無難な線におさまったのだな」。半分納得しながらも、私にはポピュラーで力強いWaltzing Matildaが国歌になっていたらなぁの思いが強く残ったものです。

□タイ
首都バンコックでも一番大きな市場でのことです。ちょうど夕食前で、食材を買う地元の人々や観光客でごった返していました。ガヤガヤする人の声やモノのぶつかる音はどう耳をふさいでも飛び込んできます。ところが、次の瞬間、その騒音がピタッとやんだのです。
シーンとして、突然、どこかの惑星に飛び込んだ様な思いにさせられました。何だろうといぶかっていると、どこからともなくラジオから国歌が流れて来たのです。せわしなく動いていた屋台のおじさん、おばさんまで手の動きを止め、じっとしていました。ほんの2−3分間だったでしょうか。初めて体験する、非常に不思議で奇妙な数分間でした。

□シンガポール
国家主席も来臨されたThe Philharmonic Chorus(TPC)合唱団の米国遠征帰国歓迎会で、国歌を歌った私たちに敬礼する将校連のあまりの真剣さに度肝を抜かれた気分になったことは、前に書いた通りです。
この国ではなぜかマレー語で国歌が歌われていました。
中華、印度、マレーなど、雑多な人種で構成されているシンガポールでは、何事によらず人種問のバランスには非常に神経を使っています。マレー語による国歌斉唱も、少数派ながら土地の原住民だったマレー人への配慮が歌い方に反映されていると考えると、納得がいきました。それにしても「国歌」の機能といったことを深く考えさせられたものです。

□カンボジア 
2007年末にアンコールワットの境内で行われたアンコール国際青少年オーケスラ・コンサートでは、以前ご紹介したアンコール青少年オーケストラのほかに日本、タイ、ベルギー、チェコからもの青少年オーケストラの有志が参加しました。
 この開演時の国歌演奏のため、私は亡父の知人だった元新潟大学名誉教授の久住和麿氏にカンボジア国歌のオーケストラ用編曲をお願いしてありました。
演奏会当夜、開演まであと10分位のときでしょうか。現地側の責任者が私の所に飛んで来て、いきなり国歌演奏は無しにして欲しいと言うのです。理由を質すと、どうやら、国歌は夜は演奏しないということらしい??。「テレビ・ラジオの夜の終了時には流してるではないか」と反論すると、定められた時間以外は演奏しないと訳の分からない事を言い始めます。 スッタモンダしながらも頭の中は、無理して編曲をお願いした久住先生と練習を重ねてきたオーケストラメンバーへの申し訳なさで一杯でした。
カッカする頭で、私は開き直っていました。
どこの国の演奏会でも、開催国に敬意を表すため国歌を演奏するのは国際的には常識ではないか、今回は多くの国の青少年が集まる国際性の高い演奏会であり、国歌無しで演奏会を進めるれば「大変な非礼になるぞ、それでも良いのか」。
「国際的な常識」論に引き下がらざるを得なくなったのか、私の剣幕に恐れをなした?のか、なんとか予定通り私たちは演奏できることになりました。
今あの時を振り返ると少々複雑です。こちらの気分に任せて「国際的な常識」と高圧的に押し通した事がはたして正しかったのか、相手の言い分をもっと聞くべきだったのではなかったか・・・。
どちらが良かったのか分かりません。ただ、私はオーケストラ演奏会に慣れないカンボジアの人たちに国際マナーを伝えたという事で勘弁してもらおう、と我とわが身を慰めているのです。

■後記 私は合唱マニアとかオタクと言われる方々とは全く対極のズボラな人間です。ただ、振り返れば生活のどこかに、いつも合唱のある半生でした。
お陰さまで各地で多くの素晴らしい方々と交流でき、得がたい経験を数多く重ねる事ができました。仕事でも密度の濃い付き合いが多くありましたが、なぜか合唱のような心に残る思い出は多くありません。(金の切れ目が縁の切れ目ということなのでしょうか)。合唱は不思議なものです。独唱してみても半人前以下の音楽にしかなりませんが、50人で歌うと、0.5 X 50人で25人前の音楽かというと、そうではないのです。むしろ40人前にも80人前にも飛躍する不思議な可能性を秘めた音楽活動なのではないでしょうか。逆に考えると、大人数でつくる音を自分の音と錯覚して自己満足してしまう面白さと、怖さを持つ活動なのだと思います。
長い間、読んでいただき、ありがとうございました。   (完)

昭和40年度卒トップテナー
山田三千夫