かけがえのない友 小林洋三をしのんで 2012/2/27
五十嵐義明(1962年卒)

「一月は忙しいだろうから、ニ月か三月になったら会おう」と言っていた君は、
一月三十一日の朝突然逝ってしまった。

ヨオ !五十嵐! いつもの笑顔で歩いて来てくれ、洋三!

君がいなくなってからは、毎日孤独と悲しみと寂しさが津波のように押
し寄せて、やりきれない時間だけが過ぎてゆく。

思えば、君と最初に会ったのは、一年のグリー入部のとき。

なぜかすぐ気が合った。同じバリトン、音程のしっかりした君はそれから
ずっと僕を支えてくれて、グリーの生活が思い切り楽しめた。

ありがとう! 洋三!

定演の最後、どんちょうの下りた瞬間、みんなが喜びに浸っている時も、
君は冷静に「こうだった、ああだった」と話していたっけ。多分、子供
の項から教会の聖歌隊の経験で習慣になっていたのかもしれない。

その教会にも僕を引っ張っていったっけ。君の葬儀を進行した牧師の
武蔵野教会へ。日曜礼拝や夏の蓼科の合宿研修も、一緒だったな!

でも、君は決して信者になれとは微塵も言わず、二年近くの教会での
沢山の楽しい思い出だけは残してくれた。

グリーの合宿や演奏旅行もそうだ。

いつだったか、下関の演奏会の後、小倉の僕の伯母さんを訪ねた折、
小遣いを沢山もらった勢いで、君と数人で九州一周をやろうというこ
とになり、鹿児島本線を 南へ下り、指宿で初めての砂風呂を堪能し、
翌朝、宮崎回りの日豊本線での切符を貰ったら、30円しか残っておらず、
コッペパン1ケで東京まで帰る羽目になった。

幸い当時は10分〜20分の停車が多く、飲み水はホームで調達でき、
のんびりと南国の海の輝きや太陽の明るさに感動し、車内が空いて
来ると自然にハミングのコーラスが出始め、グリーに入って良かったな
と感じたものである。

小林はドイツ語科であったが経済の科目も選択し、一緒に机を並べた。
統計学の先生の紹介でアルバイトも始めることになる。

朝日新聞や電通の市場調査でメーカーの新製品やテレビ番組や消費動向などの
調査のアルバイトであった。

当然小林と一緒で、君は電車の時刻を調べ、僕は温泉のある安宿を探して、
長野・群馬・栃木と旅行を楽しめた。

小林の親戚である下諏訪の家にも泊めてもらって、温泉めぐりをした。
懐かしい思い出もある。

彼はもともと鉄道が強味で特に列車の乗り継ぎに詳しく、20分の待ち合わせも
ないスケージュールを立ってくれた。時刻表を聖書のように熟読していた
様子が懐かしく思い出される。

君は卒業後、三井物産に入り、海外は・ロンドンか始まって、中東、
特にクェートに永く、最後はウィーンで支店次長を10年近く勤めて帰国し、
子会社の社長を5年近く勤め、退職している。

その間、相手との接し方や営業の進め方の上で学生時代の市場調査の
アルバイトの経験が生かされたのではないかと思う。

それにしても小林は中東からヨーロッパ全域にかけて隅々まで駆け回って、
活動していたらしい。

中東では「お前が日本人として最初にきた男だ」と良く言われていたという。

奥様も大変だったらしい。向うはいつも夫人同伴のパーティが多いので、
小林と一緒にヨーロッパ中を車で回っていたとのこと。

その辺の様子が数年前同じバリトンの柴原とのヨーロッパ旅行で分かって来た。
行く先々で小林が「あっあそこで」「あの建物でパーティが‥・」とか始終
通っていた道路を走っているらしく、急に叫び出す。

当然、人脈も多く、ウィーンでは、小澤征爾にも会うことができた。

オペラ座で小沢さん指揮のオペラ全幕をさじき席で観劇し、小沢さんと
一緒にタ食を御馳走になるという特別なもてなしを戴くことになる。

ウィーンの日本大使館にも毎週入り浸っていたらしく、大使や来客の
方々と麻雀をするのは日常茶飯事であったという。

その関係もあって、山田洋次の「寅さん」シリーズの中で唯一海外版の
撮影の折、寅さんや山田監督が「野菜の煮物やお茶漬けが食べたい」
とのことで、小林の家に呼んで、振舞った。

それと引き換えに小林はエキストラに奥さんを出して欲しいという条件をつけ、
実際にあるシーンで奥さんの姿が出ているという。

また、ウィーン郊外にある葡萄農家の居酒屋ホイリゲでも小林らしい
エピソードがある。

採れたてのワインをジョッキで飲んでワイワイ客が皆盛りあがっている
時に我々の近くに流しのアコーデォンがやって来た。

小林が突然古い「ウィーン子の歌」を歌うと言い出し、正確な音程と
ドイツ語で、朗々とやりだした。途端に全員から拍手が起こり、そのあと、
店全体がそのコーラスで響き出し、人種を超えて、心が一つになるという
素晴らしい時間となった。
たぶん小林は仕事やパーティでも彼の気取らない温かみある人間カで、
こうして押して進めていたのではないか。

君は僕の仕事面でもいろんなアドバイスをしてくれたな。

彼が物産の子各社「物産バンダム」の社長の時も、良く僕の事務所に
遊びに来てくれて、僕の時間もなく、仕事に追っかけられる様子を
じっと見ていたのだろう。

「社長は仕事をしなくていい!金の工面だけをしていれば会社は潰れない」。
まさに名言である。今思うとつぼを突いている。

小企業は金さえ回れば、潰れないし、社長がいなくても何とか回る。
人も育つ。

「社長は外で会社に生かせることを探せばいい」とそれが見事に生かされる
機会を小林はあえて作ってくれたのが11日間のヨーロッパ旅行であった。
後で気付いて、涙の出るほど嬉しかった。

五十年間彼と付き合って来て、いろんな悩みごとにもじっと静かに
聞いてくれた。

そして必ず、その場で適切なアドバイスをいつもの通りの話し口調で
理路整然とさとしてくれた。どんなに救われたことか。

ありがとう洋三!君には感謝し切れない恩があるのに‥‥‥
もう少し一緒に生きていて欲しかった。
これからゆっくり思返しをしたかったのに。

それにしてもグリーに入った御蔭でこうして小林洋三や柴原大造という
心からの親友を得ることが出来た。
現役のグリーの人達に言いたい。今、歌いながらも親友となる人を作って
いきなさい。素晴らしい人生の宝となる友を作っていってほしい。