かけがえのない友 小林洋三をしのんで 2012/2/27
五十嵐義明(1962年卒)
「一月は忙しいだろうから、ニ月か三月になったら会おう」と言っていた君は、
ヨオ !五十嵐! いつもの笑顔で歩いて来てくれ、洋三!
君がいなくなってからは、毎日孤独と悲しみと寂しさが津波のように押
思えば、君と最初に会ったのは、一年のグリー入部のとき。
なぜかすぐ気が合った。同じバリトン、音程のしっかりした君はそれから ありがとう! 洋三!
定演の最後、どんちょうの下りた瞬間、みんなが喜びに浸っている時も、
その教会にも僕を引っ張っていったっけ。君の葬儀を進行した牧師の
でも、君は決して信者になれとは微塵も言わず、二年近くの教会での グリーの合宿や演奏旅行もそうだ。
いつだったか、下関の演奏会の後、小倉の僕の伯母さんを訪ねた折、
幸い当時は10分〜20分の停車が多く、飲み水はホームで調達でき、
小林はドイツ語科であったが経済の科目も選択し、一緒に机を並べた。
朝日新聞や電通の市場調査でメーカーの新製品やテレビ番組や消費動向などの
当然小林と一緒で、君は電車の時刻を調べ、僕は温泉のある安宿を探して、
小林の親戚である下諏訪の家にも泊めてもらって、温泉めぐりをした。
彼はもともと鉄道が強味で特に列車の乗り継ぎに詳しく、20分の待ち合わせも
君は卒業後、三井物産に入り、海外は・ロンドンか始まって、中東、
その間、相手との接し方や営業の進め方の上で学生時代の市場調査の
それにしても小林は中東からヨーロッパ全域にかけて隅々まで駆け回って、 中東では「お前が日本人として最初にきた男だ」と良く言われていたという。
奥様も大変だったらしい。向うはいつも夫人同伴のパーティが多いので、
その辺の様子が数年前同じバリトンの柴原とのヨーロッパ旅行で分かって来た。 当然、人脈も多く、ウィーンでは、小澤征爾にも会うことができた。
オペラ座で小沢さん指揮のオペラ全幕をさじき席で観劇し、小沢さんと
ウィーンの日本大使館にも毎週入り浸っていたらしく、大使や来客の
その関係もあって、山田洋次の「寅さん」シリーズの中で唯一海外版の
それと引き換えに小林はエキストラに奥さんを出して欲しいという条件をつけ、
また、ウィーン郊外にある葡萄農家の居酒屋ホイリゲでも小林らしい
採れたてのワインをジョッキで飲んでワイワイ客が皆盛りあがっている
小林が突然古い「ウィーン子の歌」を歌うと言い出し、正確な音程と 君は僕の仕事面でもいろんなアドバイスをしてくれたな。
彼が物産の子各社「物産バンダム」の社長の時も、良く僕の事務所に
「社長は仕事をしなくていい!金の工面だけをしていれば会社は潰れない」。
小企業は金さえ回れば、潰れないし、社長がいなくても何とか回る。
「社長は外で会社に生かせることを探せばいい」とそれが見事に生かされる
五十年間彼と付き合って来て、いろんな悩みごとにもじっと静かに
そして必ず、その場で適切なアドバイスをいつもの通りの話し口調で
ありがとう洋三!君には感謝し切れない恩があるのに‥‥‥
それにしてもグリーに入った御蔭でこうして小林洋三や柴原大造という |